ぽっきいブログ

ぽっきいが語るマッチングアプリ体験記

あの人はなぜ愛されるのか?

なぜ世の中には深く愛される人と、軽くあしらわれる人がいるのか。

 

不公平だと思うかもしれないが歴然とした理由が存在する。

 

今日はそんなお話。

 

 

俺は夜の世界で師匠たちから「愛とは貢献のこと」と何度も何度も言われてきた。

 

最初、それはおとぎ話のような、ちょっと綺麗ごとのような気がして正直どうでもよかった。俺もガキだったからね。

当時はボランティアなんてしたことがなかったし、社会貢献なんて縁はなく社会と他人からいかに奪うかばかり考えていたから。

「ボランティアなんてやるのは金持ちだけ、自分が金を持ってからやれ」なんて平気で言っていた。今思うと恥ずかしいね。でもそれは20代のチンピラだった頃の話なので仕方ない。

恋愛関係や夫婦関係でも同じように、まずは自分が満たされないと他人に尽くすことなんかできないと思っていた。

 

だから愛とは貢献のことなんて言われても、聖人じゃあるまいしとか馬鹿にしていた。どうせ自分が一番大切なくせにとか言って。

 

でも年齢とともに人生経験が積みあがっていき、この意味が分かるようになった。

 

大人になってたくさんの恋愛をしてきて気づいてきたのだ。

 

こんなぽっきいでも、いい恋愛を沢山してきた。本当に相手のことを好きに思い、大切にする恋愛を。

でもその一方で、なんだかどうでもいいような恋愛もあった。全く関係は深まらず日増しに白けていくばかり。今はもう名前も顔も全て忘れてしまったような恋愛が。

 

このふたつ、何が違うんだろうと。

 

いい恋愛をしているとき、相手の女性も俺も、常に相手のことを思って尽くしている。例えば遠距離で交際していたとき、「会いたいから会いに行くよ」と言ってお互いに時間とお金を費やして一緒にいる時間を確保していた。

会ったときは、これを食べさせたいなとかあの店に連れて行こうとか必死に考え、喜んでもらえるように頑張った。

欲しいと言っていた物を探してプレゼントしたり。

常に、与える、尽くすという相手にとって得になることを繰り返していたと思う。

 

一方、白けるだけの恋愛は常に奪うことばかり考えていたと思う。奪うという言い方が不適切だとしたら、「与えない」恋愛だったと思う。

気を引きたいからという理由で与える行為があったとしても、相手に喜んでもらいたいという純粋な気持ちがない。どういう理由であれ与える物や時間が少ない。もっと言うと、自己犠牲のスケールが小さい。

 

自己犠牲のスケールの大小で、どうしても愛の深さは変わってしまう。

スケールの大小とは金額のことだけではなく、自分にとっての犠牲の大きさのこともそうだ。100しかないもののうち、40も自分に費やしてくれたのかと思うと、誰だって心が動く。申し訳ないなと思うと同時に、頑張ってくれたんだな、自分を思ってくれてるんだなとも思う。お金はもちろん、時間も、心のエネルギーも。

自己犠牲は、相手を楽しませよう、相手を助けようという気持ちが原点なのだから。

 

そして「あなたはわたしにこんなに大きな自己犠牲をしてくれている」と言葉に出して感謝を伝えること。分かっているよと伝えたくなること。この伝えるという行為は相手の目線に合わせないと絶対に出来ない。寄り添わないと感謝を伝えるのは難しいよ。

 

これを繰り返して過ごしていると、きっと純粋にこう考える。

 

相手がわたしに費やしている犠牲の分を、自分が与える物で埋めよう、と。

 

名犬ジョリーの歌じゃないが(古い)、ビスケットをいつも半分こする習慣が恋愛を育てる。

 

こうして自己犠牲の交換と、感謝があれば愛はどんどん深まっていく。

 

自分のことばかり考えている人は、相手が恋愛経験が豊かであればあるほど早々に気づかれてしまう。

自分の利益を叶えることばかり優先して、相手を置いてきぼりにする。私はこれが欲しいけど、あなたもこれが欲しいでしょ?と勝手に決めつける。自分が理想とする姿に相手を会わせようとする。わたしはこんなのが理想だからあなたも合わせて、という押し付けが増えてしまう。

相手の人生の物語に耳を澄ますことも当然しない。それを聴くタイミングも逃してしまい、もう絶対に話してくれなくなる。

好き好き言うだけでは相手は白けていく。バカじゃないのと思う。自己犠牲をしなくなる。時間も金も感情も1ミリも費やさなくなる。

そして簡単に終わる。終わり方もそっけないもので。

 

与え続けること、自己犠牲をし続けてきた人、そして相手からも受け取り続けてきた人は、自分の都合で相手から奪おうとする人に敏感だ。

 

愛されている人は、自己犠牲をしている。相手の自己犠牲を自分の犠牲で埋めようとしている。